共感と反感

たとえば、はてなブックマークというサービスは、
web記事のURLを保存するだけでなく、
自分のコメントを付加できるサービスです。


たとえば、ニコニコ動画というサービスは、
その動画の特に気になるシーンについて、
再生と同時にコメントできるサービスです。


昨今、SNSと呼ばれにぎわっているサービス群は、
生活の中から思ったこと、気付いたことについて、
気軽に簡単にコメントを共有できるサービス群です。


こういったサービスはなぜ生まれるのか? という問に対しては、
多くの場合「共感」がテーマになるように感じます。
同じ思いを持つこと、同じ感じ方を確認すること。
もう少し難しく考えれば、承認欲求というものになり、
自分という存在が認められることを欲しているのだとも言えます。


ま、そのことについては共感してもらえそうな気がするので、
それ以上は掘り下げません。
ぼくが考えているのは、「反感」の存在の方なのです。


きっと、多くのユーザ達は「共感」してもらえることを目標に、
それらのサービスを使っていると思っているのです。
しかし、「共感」のあるところには「反感」もある。


みんなが「すごい」と言っていれば、「すごくない」という意見がある。
「立派だ」と誉め称えられていたら、「誰でもできる」と冷たくあしらう。
「よく粘った」があれば「気付くのが遅い」があるし、
「素晴らしい速さだ」と言えば「運がよかっただけ」がある。


なぜだろう。なぜ「反感」があるのだろう。
いや、それも承認欲求という考え方があれば、おそらく説明できます。


これは個人的な思いですが、
「反感」が多いのは、どちらかというと「独創性の高い人」、
あるいは「独創性が高いと思い込んでいる人」です。
なぜなら、独創性が高いというのはある意味「普通が嫌だ」というわけなので、
言わば「みんなの考えは嫌だ」ということです。


少し蛇足になりますが、
「反感」が多い人は、役職の高い人や高学歴の人が多いようにも見受けられます。
それは、上を目指そうとする人は、ある意味普通を脱しようとしている、
「普通が嫌だ」の確率が高めな人だからです。例外も多いですが。
ま、それはそれとして。


でも、「反感」ばかりしていても疎外されるだけなんです。
それでは承認欲求は満たされない。
ところが、この「反感」というやつは、
「反感」する人同士では、「共感」になるのです。
あれは嫌いだ、という人同士では、まさしく共感。


反対勢力のトップというのは、反対勢力から大きな支持があります。
そこには「反感」達の「共感」がある。
反対勢力の存在意義は反対勢力によって支えられるので、
「反感」というものがなくなることは、決してないと言えてしまうのです。


……さて、「反感」というものが「共感」と切り離せないことは
こういうことで説明できると思うのですが、
ぼくが言いたいことはそういうことではないのでした。


なんとか「反感」を排除できないものか。
「反感」が排除できるような限定的な集まりはできないものか。
今はこういうことを考えています。


冒頭の例に戻りますけど、
はてブというものは、自分の気になるwebページに、
何が気に入ったのかを書き込み、
ニコ動というものは、自分が良いと思った場面に、
どう良いと思ったのかを書き込み、
SNSというものは、自分がふと思いついたことに、
何を思いついたかを書き込めばいいわけです。


気になったり、良いと思ったり、何か思いついたり、
そういう時に使えばいいのに、なぜか、なぜか。


気に入らないページに文句を良い、
気に入らない場面を罵倒し、
気に入らない思いつきをバカにする。
ま、はてブは他より可視性が低めなので、陰口っぽいですけど。


気に入ったもの同士で限定的に集まれば良いのに、
わざわざ気に入らない人が入ってきて、
わざわざ「共感」vs「反感」で対立構造を作る。
これがなかなか理解できません。
政治的なことならまだしも、趣味的なことともなると一層。


遡れば、仲良しグループが遊んでいるところに、
わざわざ割り込んでくるガキ大将的な存在はいたわけです。
そもそも、ぼくにはその心情が理解できません。
面識があるのなら嫉妬かなと思えるんですが、
彼らは見ず知らずの他人のグループさえ壊しにかかるのです。
組織内の権力を高めたいということになるのでしょうか。


……「共感」と「反感」が切り離せないと結論付けておきながら、
「反感」だけを排したいというのは矛盾かもしれません。
いや、いいんですよ。
ぼくの好きなものをあなたが嫌いでも、ぼくをあなたが嫌いでも。
それをなぜ、面と向かって言うかなあ。
そこで生まれる反感に、何の意味があるのかなあ。


こう考えることも一種の「反感」なのかもしれないと思いつつ、
またぼく自身、「反感」を押し出すことに気をつけつつ、
さらに、幼少期に「反感」をまき散らしていた自分を悔やみつつ、
とりあえずこの記事を閉じることにしましょう。