読字障害

ちょっとしたきっかけから
「読字障害」というものに行き当たりました。


詳細は他の文献を参照すると良いと思いますが、おおざっぱに言ってしまえば、
「読み書きのレベルが小学校低学年レベル」といった状態のようです。
もちろん、程度の浅い・深いもあり得ますから、
全く文字がわからない人もいるようです。
ここで注意すべきは、「会話は問題なく可能」であることです。


どこまでが正しいのか、ぼくには判別できませんが、
人間は、視覚から得た文字情報を脳内で「音」に置き換え、
音として情報を認識するそうです。
ここで、その「読字障害」というのは、
文字情報を音に変換するプロセスに問題があるらしいと。
ですから、音としてやり取りする会話は正常だけれども、
文字の認識となると、困難であるということでしょうか。


読字障害の方は、文字を見ても乱雑な絵にしか見えないそうです。
その絵を見て、この絵は「め」と発音するのだ、というような、
絵合わせをするような感覚で認識をする必要があるそうです。
いや、本当にどこまで正しいのか知りませんけど。


ぼく自身は、文字を見ると無意識のうちに
その情報を認識しているように感じます。
ところが、意識的な絵合わせをしないと文字が読めないのですよね。
言わば、換字式暗号を読めと言われているようなものなのでしょうか*1
そうだとするなら、相当なストレスがかかることは推量できます。


つまり、全く文字を読めないことはないにしても、
1文字を読むのにジグソーパズルを1枚完成させるような労力が必要なら、
それは「文字を読める」とは言わない。
そういう解釈ではないかと、ぼくは考えました。



……といったことを踏まえた上で。
ぼくは普段、注意書きを無視する人を見ては
「書いてあることが読めないのか」と憤ることが多々あります。
が、このことを知った今、
実際に読めない人もいるのではないかということを思いました。


義務教育を受けている以上、読めないでは済まされない話なのですが*2
そういった障害を実際に持っているために
文字を見てもその情報が目に飛び込んでこないというのなら、
周知の方法を変える必要があるのではないかと思います。
コストはかかりますけど、人感センサーでスピーカー出力するとか。
構内アナウンスとポスターとでは、どちらが効果があるんでしょうかね?
もし効果に差があるとすれば、選挙カーの肯定にもなりうるのですが……*3


「読めないのか?」や「読んでなかったのか?」といった注意の仕方は、
場合によっては正しくないのかもしれません。
本当に読めていない場合が、あるかもしれませんから。
指示・注意は的確に、冗長であっても音読しておくことが必要なのでしょうかね。


これが本当だとすると、筆記試験というのは実に不公平な試験方法ですよね。
これも正確性は保証できませんが、日本人の5%、
つまり20人に1人が読字障害を持っているかもしれないそうです。
それなら、1学級に1人2人はハンデがついている可能性もあるわけです。
しかも読字障害は顕在化しにくいそうなので、
結局、読むのが遅いという理由で切り捨てられることになりかねません。


しょっちゅう読み間違いをする人が時々いますけど、
不注意も含めて、このことが影響していないとは言いきれませんね。
もしかすると、それが軽度の症状なのかもしれません。
そういうことを考えると、文字のコミュニケーションというのは、
思っている以上に伝達しにくいのでしょうね。



で、最後にですが。
文字を読めないからといって、未就学者や非日本語話者であるとは限りません。
いたって普通の人間が、文字を読めない場合があります。
それ以前に、字を読めないことを非難することは、あるまじきことです。


かといって、字を読めないことを自慢するべきでもありませんし、
そのことを権力にするなどもってのほかです。
やはり、自分に合う環境を自分で用意しておくことも必要だと思います。


大事なのは、読める・読めないではなく、
「伝わっている」ことです。
伝えようとする意思を持って、表現をするべきだとぼくは思います。
「表現」は、伝わって初めて価値があると思います。


願わくば、この記事が読めて、伝わっていますように。

*1:換字式暗号というのは、文字の種類を別の種類の文字で置き換えた暗号です。例えば1文字ずらしの場合、「けみがけ」→「こむぎこ」のような。

*2:義務教育で教わることというのも、なかなかいい加減なものですけれどね。

*3:選挙カーは断固反対したいところですがね。気が散ってしょうがない。