博士の愛した数式

――ぼくの記憶は80分しかもたない――

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読了しました。
これまで、なんとなーく読まないでいたのですが、
読んで好かったです。


家政婦の「私」と、その息子「ルート」、
交通事故で記憶に障害を負った元数学教授の「博士」、
3人をつないだのは、「数学」でした。


「数学」と聞くだけで、
冷たい無機質なイメージが浮かぶ人もいるかもしれませんが、
「博士」の「数学」は、温かいものです。
数学に魅了され、数学に「愛情」を注ぐ。
その「愛情」が、「私」と「ルート」と、
そして「博士」との「絆」になるのです。


数学と言っても、その中身は難しくありません。
いや、ヒルベルト問題とかアルティン予想とか、
とんでもなく難しいこともちらっと書いてありますけど、
それは言わば、レトリックのようなものです。本題ではありません。
四則演算さえできれば意味は分かることなので、
逆に物足りないくらいです。


かといって、そのヒルベルト問題アルティン予想という言葉を見て、
「数学には、こんな問題や考え方もあるんだ」という発見もあり、
なかなか侮れないものです。


「数学」や「愛情」の次に軸となるのが、「野球」です。
完全数"28"を背負った江夏豊の輝かしい描写があるのですが……
ごめんなさい。野球には とんと疎くて、全く分かりません。


しかし、「数学」と「愛情」と「野球」、
この3つの軸が互いに影響し合うことで
かけがえのない絆が生まれることの美しさには、
「野球」が分からないながらにも感動しました。
だから、たとえ「数学」が分からなくても、「愛情」が分からなくても、
何か打たれるものはあるはずだと、信じています。


ところで、不思議に思っていることなのですが、
なんでこの小説は、こんなにも美しいんだろう?
数学ではない「美しさ」が、隠れている気がするんです。
それはまるで、小説自体が「数学」であるかのような。


時間軸がころころと変わる構成で、
何日か経ったのかと思えば、まだ「今日」は続いていたり、
突然回想が割り込んで、ふと「今日」に戻ったり、
一見ややこしくなりそうなストーリーなのです。
ところが、不思議とややこしくならない。
これは、この小説が「数学的」であることの証拠じゃないかな、と。


「見えないものが見えている」ということなんでしょうね。
紙に書くことが出来ない「直線」のように。
現実に見つけることが出来ない「虚数」のように。
「フィクション」という、ありもしないはずの世界が、
鮮明に、一点の曇りもなく見えている。
そう考えると、数学者も小説家も、
或いは同じようなものなのかもしれません。


博士の愛した数式
ああ、そんな「博士」にぼくも会ってみたい。
素敵な小説でした。