忍び寄る「ま、いいか」

論理的思考の最大の障壁は「ま、いいか」である。

ちょっと思いついたので書いてみました。
ささ、考察開始。


物事を学ぶ上では、恐らく何かにぶつかります。
大小難易問わず、何かにぶつかるはずです。
その障壁を越える、若しくは砕くことで、
人はその代償となる何かを得ます。


逆にいえば、
障壁にぶつからない、障壁を取り除けない人が得るものは、
たいしたことのないものです。
かといって、無駄だとは言えません。
積み重ねていけば、チャンスは生まれるはずです。


ところが、折角何かにぶつかったのに、
その障壁に取り組むことをやめる、「ま、いいか」で済ませてしまう、
そんな人に返ってくるものは、何もないのです。


何かにぶつかった。「なんで?」
疑問を抱き、原因を究明することで、解決の手立てを得る。
そして、障壁を打ち破る。「そうか!」
この過程に、たくさんの知恵――宝物――が隠されているのです。


「ま、いいか」というのは、細かいことを気にしないことではない、
この先役立つ素敵なものを見逃しているということだ。
こう思うのですよね。


といっても、冒頭の命題が真である保証はありません。
なにより、「最大」を付けてしまったのがまずかった。
論理的思考に対する障壁をすべて洗い出さなきゃいけないんだから、
こりゃ手間がかかる。ま、いいか。


ところで、ぼくは「ま、いいか」を滅ぼすべきだとは言いません。
論理的思考においては邪魔になることこの上なしですが、
感情的なこの世の中においては、これまたこの上ない「緩衝材」となり得るのです。
何でもかんでも考え過ぎるのは、無駄ではないけど疲れますよね。
何事も程々に、というところです。


因みに、この伝書閑古鳥を見ますと
「ま、いいか」より「まあいいや」の方が圧倒的多数でした。
どうでも良い話でした。ま、いいか。