順番に進める人と順番に戻れる人
先に断っておきますけど、
この記事は、おそらくまとまらないと思います。
そういう意味で、ぼくは「順番に進めない人」である気がしますね。
さて、言い訳が終わったところで。
ぼくは今、「順番に進める」と「順番に戻れる」について考えています*1。
おおざっぱな概念の違いを示すと、
「順番に進める」の方は、
「ある手順や行き先が示してあれば目的地にたどり着ける」で、
「順番に戻れる」とは、
「目的地がわかっていれば自分で道順を考えられる」という感じ。
後者は、「逆算できる」とも言い換えられますね。
これ、確かプログラミングをしている時に思ったことだったはずなのですが。
プログラムって、読めたからと言って、書けるとは限らないんですよね。
どういう風に処理が流れているかは理解できるけど、組み立てられないよ、という人。
逆に、動作するプログラムを書けるのに、他人のプログラムを読めない人もいます。
ぼくなんかまさにそれで、他人の思考をトレース*2するのが苦手というか。
書けると読めるは、別なんですよ。
その正体を考えているうちに、さっきの考えが浮かんだんです。
「読める」というのは「順番に進める」ことで、
「書ける」というのは「順番に戻れる」ことじゃないかな、と。
で、さらに言えば、数学的な用語を当てはめて、
「順番に進める」は「演繹的*3」、
「順番に戻れる」は「帰納的*4」にあたるのかなあ、と。
もう一つジャンプ*5してみると、
「演繹的」は「数学的」とか「論理的」と言えると思いますし、
「帰納的」は「実験的」みたいな言い方もできるんですよね。
そうすると…?
「読む」という行為は正しさを追及することで、
「書く」という行為は試行錯誤的であると。
うーん、それっぽい感じもするし、そうじゃない感じもするなあ。
特にこれといった結論は何もないけど。
うーーん、ほら、何にもまとまらない!
結論が先に浮かんでしまえば、いろいろと「書ける」のですが、
この記事のように、「アイデアの種」だけがあるときは、
枝葉がほうぼうに伸びていって、まとまらないんですよねー。
「順番に進める」人は、好き勝手に伸びる枝葉に沿って
自分の考えも柔軟に変えられるということでしょうか。
……なに、ぼくは頑固なのか?
あー、まとまらないけど、まあいいか。
「それはこうだろ!」という意見がありましたら、
ぜひぼくにご説教をお願いします。