予習

「予習」って、知ってます?
読んで字の如く、「予め、習う」ことです。


……あれ?
「習う」って、人から教わるとか、
学んだことを繰り返すとか、そういう意味じゃなかったっけ?
そう考えると、「予学」のほうが合っている気もします。


ま、文字の事はさておいて。
概念の方を考えましょう。


予習の意義と言うのは、おそらく
前もって学習することで理解の幅を広げるだとか、
講習を効率良く進めるために先回りして学んでおくとか、
そういったことでしょう。


で、一般的には前者を名目にしておいて、
後者を真の目的にするんですよね。
兎角現代は時間が足りないもんだから、
取るに足りないところは各自やっておけと。


でも、実際一番習いたいところは、
取るに足りない部分だと思うんですよ。


取るに足りない部分って、例えば何でしょう?
語学だと、単語の意味とか?
活用の種類とかもですかね?
数が多いから、その場で調べていちゃ きりがないですものね。


しかし、実はその取るに足りない部分が、
最もつまずくところだったり……しません?
ぼくは、そんな気がします。


講習する時間が少ないんだったら、
多分予習する時間もあまりないと思うんですね。
すると、やはり何でも丸暗記になっちゃう。
それが予習のつもりになっちゃう。


それでいざ実際に使おうとすると、
どう使うんだっけな、と。
講習では、使い方が分かっている前提だから、
何事もなく進んでしまうんですね。


結局、予習で覚えてきたものを当てはめるだけになって、
得ることは無くなっちゃう。
予習には、そんな印象があります。


かといって、予習を止めると、
講習の内容がさっぱり分からなくなっちゃいます。
それもまた困ったこと。
じゃあ、どうするのかというと、
予習の意義を変えてしまえばいいんです。

予め、失敗せよ。



ぼくは、予習ですべてを知る必要はさらさら無いと思っています。
寧ろ、予習では、分からないところは分からないままに、
いい具合に分からないところを残すべきだと。
「いい具合」って、適当な表現ですけどね。


そして、間違った認識を持ったまま、講習に臨むのです。
そこで実際に使ってみて、間違っていることを確認する。
それで、どうすればこの勘違いが解消するかを考える。
その勘違いを見事消し去ることが出来れば、
「理解した」と言えるんじゃないかな、と。

理解するとは、勘違いに自ら気付くことである。



これ、最近思いついたことなんですけどね。
なかなか好いんじゃないかな、と思いまして。
これ自体が勘違いだとすると、おかしなことになりますが。


理解するためには、
たくさん失敗し、
勘違いを生んで、
それを消しにかかろう。


「たくさん失敗し」のプロセスには、
予習が最適だと思います。
分かってもないのに覚えたってしょうがない。


こけて、その痛みを知れ。
痛みを知れば、自然と身に付くでしょう。
そう考えれば、「予習」も有用ですよね。


この理論、理解されましたか?
いや、あなたの勘違いは解消されましたか?


この記事を読んで、勘違いしていたと思わなければ、
理解していないか、
それ以前に理解していたか、
ぼく自身が勘違いしているか、のどれかですね。


まとまったようで、まとめきれてない気がするので、
今度は「理解する」の持論を整理してみよう。
今回はここまで。