理解と気付きを再考察

「効率」という言葉をご存知ですか?
……いやいや、馬鹿にしたいとかいった意図はありません。
前置きというやつなんです。


では改めて。
「効率」って何でしょう。
「入力と出力の比率」というのが、
コンピュータ畑のぼくの解釈です。
「コストパフォーマンス」と同義だと考えれば、
「費用・労力と効果・成果の比率」でもいいですよね。


で、現代社会は効率を求められると言われます。
廉価な大量生産が溢れかえる現状を見れば一目瞭然です。
安く作って多く売れば、効率はいいのです。
それはモノだけではなく雇用も同じで、
安く雇って大きな利益をあげたいのは世の常ですよね。


結果、モノやサービスを深く理解している人が少なくなって、
何か問題が発生したときに、とっさの対応ができない。
それが現代社会の大きな問題と言えます。


ところで、「理解」って何でしょうか?
現時点でのぼくの解釈としては、以前、
「理解するとは、勘違いに自ら気付くことである」
というふうに書きました。


これは持論であって、正確な定義とは言えないかもしれません。
辞書では「意味を正しく判断する」と表現されることが多いです。
ただ、勘違いに気付くということは、
正しい判断じゃなかったことに気付くということですから、
あながち間違いとも言えないと思っています。


「理解することは難しい」と言われたりしますが、
それは、何を勘違いしているかがわからないからです。
「何を」がわかることが、「理解する」ということですから。
尤も、勘違いに気付いたという勘違い、
即ち「理解したつもり」に陥らないように気をつけなければなりませんが。


じゃ、「気付く」とは何だろう?
「気付き」などと言われることもありますが、
それはどういう意味を指すのでしょう。


「異常を見つける」
これが一般的な「気付く」の意味だと思うんです。
異常というのは何も危険という意味に限らず、
雰囲気がいつもと違うとか、味が変わったとか、
そういう場合に「気付く」を使います、よね?


そう考えたとき、
「あれ?」と感じるのです。


なぜ、「気付く」ことは大切なのか。
それはやはり、早く異常を見つけないと、
自分の身が危険にさらされるから、と言えるでしょう。


なぜ「理解する」ことは大切なのか。
それは間違った情報を排除することで、
自分の身に降りかかる危険を減らすためではないでしょうか。


でもそれって、本当に好いことなんですかね?
異常をなくして、間違いを排除する。
それって、「普通になる」ってことですよね?


みんなが同じ価値観を、普通の価値観を持っていれば、
価値観を揃える苦労はなくなりますから、
効率は良くなると言えるでしょう。
現代社会に求められる逸材ですね。


だけど、みんなが普通の社会なんて、
ぼくはその考え方が良いとは思わない。
それは、意味の捉え方をちょっぴり変えるだけで
大きく方向が変わります。


ぼくは思うに、「気付く」や「理解する」が大切なのではなく、
「異常」や「勘違い」そのものに着目すべきなんです。
そして、排除するのではなく、
むしろ取り上げて吟味してしまう。
その吟味した結果は、「革新」の種になると思うのです。

「気付く」で見つけた異常と、
「理解する」で見つけた勘違い、
それが「革新」の種。


無駄を削り、例外を除ければ、
効率はどんどんと上がっていくでしょう。
しかしそれだけでは、新しいものは生まれない。


長くブログを続けてきた中で
ネット社会と言う文化に気付き、
文化が根付く理由を理解しつつあります。
が、それは実は、
ブログを書くにあたっての障壁になっている、
そんなことにも気付き始めました。
そして今、これまでの勘違いを吟味しているところです。


無知って素晴らしいな。
そう思って未知なる領域に飛び込んでも、
いつのまにか無知じゃなくなっている。
それは当然なんですけど、不思議です。


……いやはや、正月から何考えてんだか。
こんな感じで、今年もよろしくお願いしますねー。