言葉に出来ない感動

人は例えば、感動します。
一口に感動といっても、様々な尺度の感動があります。
涙が出るような感動、温かい感動、ぞっとする感動などなど、
種々の形容や比喩を駆使して、その感動を人に伝えようとします。


さて、その数多あるどんな感動よりも感動したとします。
そんな時、人はこう言います。
これは言葉に出来ない感動だ、と。
いかなる形容や比喩を使っても表せない程、入り組んだ深い感動だ、と。


確かに「言葉に出来ない感動」は、
他のどんな感動よりも強く心打たれているように感じます。
……でも、
あまりにも普及し過ぎちゃったんじゃないかな、と思います。


一般大衆に広まるということと、価値が下がるということ、
これを同一視するのは、社会通念ではないかと思います。
本当は、そんなこともないとは思うんですけども。
しかし、あらゆる場面で使われているのを見ると、
庶民的になった、つまり価値が下がったかのように見えてしまいます。


この「言葉に出来ない感動」は、今ではしばしば使われますよね。
だから、この言葉を聞いても
さして程度が大きいようには感じなくなってしまいました。


それを一言で言うと、
「言葉に出来ない」という言葉が生まれたと。
そういうことになると思うのです。
もう少し展開すると、
「言葉に出来ない感動」という感動は、
「言葉に出来ない」という言葉で表現できる程度だというわけです。


今までにない感動を味わったのなら、
それを表す新しい表現を作っていきたいですね。
このことに気付いた時、
ぼくは歌からインスピレーションを得たような感動を覚えました。
(註:「ような」ではなく、実際そうでした)