ひとりであること

独創的というのは、
ほめ言葉でしょうか、けなし言葉でしょうか。


独りで創った、
他人の介入しない世界。
他人を介入させないととるか、
他人が介入し得ないととるか、ですが。


他人が創ったものを見ると、
それは、自分の中に取り込まれます。
完全な模倣が無理でも、
それっぽいものを作ることは出来るんじゃないでしょうか。


人は、吸収に長けた生き物です。
自己をよりよく為さんがために、
他人を倣い、己に取り込みます。


それ故に、「自分とは何か」といった問題が生まれるのでしょう。


全く新しいものを作り出そうとしても、
大抵の場合は、既存のものが礎となってしまいます。
勿論、創意がないとは言えません。
しかし、この時点で、可能性は制限されます。
完全なる自分とは、どのようにして打ち出せるのでしょうか。


ぼくは、「無」から「有」は生まれないという考えを持っています。
例えば、発想というのは、ある小さなきっかけを元にして、
あらゆるものが結び付き、大きくなるのだと考えています。
ですから、この考え方である以上、
真なる独創はあり得ません。


ぼくはまた、「零和」という考えも持っています。
全ての要素を足し合わせると、「零」になります。
ぼくは、この「零」を「無」であると捉えています。
この考え方では、
「無」から、「正の有」と「負の有」が生まれ得ます。
さっきと矛盾しているじゃないかと言われそうですが、
自分では、矛盾していないつもりです。


というのも、
「負の有」というのを 認識し得ないものとして扱うからです。
前者の「有」というのは、「正の有」のつもりです。
じゃあ、「正の有」・「負の有」ってなんなんだ、ってことになりますが。


「正の有」というのは、認識し得る、すべてのものです。
ポジティブな、善いことだけが、「正の有」なのではなく、
ネガティブ、悪も含めています。
おばけとか、オカルトとか、そういったことも含めます。
それらの外に、
「負の有」があるのです。


「負の有」って、「無」じゃないのか、という感じもしますが、
それは違います。
「無」は「無」です。
なんにもありません。
「負の有」というのは、得体の知れない何か、なのです。
「正の有」と同じ数・同じ量だけ、「負の有」が存在します。
「負の有」の働きは、人の想像を超えた、もう一つ超えたあたりに、
見出せるのではないかと思います。


とすると、完全なる独創が生まれるとするならば、
その裏では、巨大な「負の有」が生まれているのではないのでしょうか。
それがいったい何を意味するのかを、
筆者に求めるのは全くの見当外れです。
でも、認識できないところで、何か 起こるのでしょう。


しかし、そうなると もはや、神頼みにしかならない気もします。
それに、得体の知れない何かが勢力を蓄えるのも、
いかがなものかと思いますし。


何にも倣っていない、クリアな独創。
全く既存のものに頼らない、透きとおった独創は、あるのでしょうか。
人は、そういったことを成し得る生き物なのでしょうか。
不勉強なので、この辺りは分かりません。


ごちゃごちゃと展開しましたが、
結びつけて出来た独創こそが、「真の独創」だとも思ったり。
「無」から ぽーんと出来あがるより、
かちゃかちゃっと組み合わさる方が面白いとも思ったり。
ん…?それは「アイデア」か…?
あー、訳わかんなくなってきた!
自分で書いてるのに、ほんっとに分からない!


で、何を示したかったのかと言うと、
最近、この「伝書閑古鳥」に独創性がなくなってきたなと思って、
昨日のリフレッシュをしたんだよ、っと
理屈付けしようと思っただけだったのですが、
思いの外、飛躍した文章となってしまった次第であります。


共感を得たいという気持ちも 溢れるほどにありますが、
自分だけの考えであって欲しいと思ったりもします。
ひとりであることは辛いのかもしれませんが、
ひとりでありたいのです。
でも、その「ひとり」は、
「独り」ではないのですが…